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古民家(尾形の御堂家)の現況

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母屋

 将来的には、カレイ山展望公園からの遊歩道(只今造成中)を伝って、この古民家へたどり着くことを目標にしています。古民家の活用法については現在思案中で、宮窪へ立ち寄った方々に満足頂けるサービスを提供したいと考えております。
 現在、古民家の所有者・御堂(みどう)家の直系子孫さんは県外在住で、空き家となった同家住宅を、まちづくり活用することにご理解を頂いております。しかし、活用のためには、リノベーションへ向けた多額の補修工事等の費用が想定され、息の長い、慎重な対応が求められています。
 今回は、御堂家住宅の所見を少し述べてみたいと思います。でもその前に、ちょっと昔噺を…。

●カレイ山で起きた百姓一揆!?

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若宮地蔵尊
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若宮神社

 この御堂家のルーツでもある御堂嘉右衛門は、今治藩最大の百姓一揆“カレイ山騒動”(宝歴6/1756年)が起きた際、宮窪村の利権を守るべく、仲間とともに城下へ詰めかけ、藩に意見を述べて打ち首となった義民で知られます。
 カレイ山は、そもそも宮窪村と余所国村の入会地となっていましたが、ある時、藩がその慣習を破って、伯方島の有津村に使用権を与えたことが、騒動の発端とされます。今でこそ、カレイ山は大島石の採石場で有名ですが、当時は山から採れる薪・下草・落葉は、燃料・飼料・肥料となり、宮窪・余所国の両村に恵みを与えていました。

 騒動の結果、藩は誤りを認めて、再び両村は山の使用権を認められますが、嘉右衛門ら3名の首謀者は、徒党を組んで城下へ押しかけた罪で打ち首となります。その他にも、多くの村民が処分を受けました。海南寺境内の「若宮地蔵尊」は3名の供養塔で知られ、カレイ山中腹の若宮神社は、事件のほとぼりが冷めた頃に、村人が彼らを義民としてまつった社です。
 カレイ山には、こうしたストーリー性があり、その象徴として御堂家があるのです。

●大正年間につくられた和風住宅

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 御堂家では、宮窪町宮窪のこの本家屋敷を「尾形」(屋号/おがた)と称しています。中村集会所から眺めると、最も高台に位置するのがこの屋敷です。古老からの聴き取りによると、屋敷を囲む造成石垣は、昭和20年代に築造したようで、整形した花崗岩の切り石が谷積みの工法で美しく積み上げられています。

造成石垣
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 建物は、母屋と蔵(倉庫)1棟が残され、それらは同時期頃に建てられたものと思われます。もとは離れがあったようですが、現在は空き地となり、広くなった庭からは能島城跡や燧灘を望むことができます。

蔵(倉庫)
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庭からの景観

 正確な竣工年代は分かっていませんが、古老によれば大正年間後半だろうとのことです(私見では、大正初期と思う)。母屋はつし2階建て、本瓦葺きの入母屋造りです。特に目立った洋風建築の意匠性は見受けられません。屋根の水板瓦には、【鯉の滝のぼり】が装飾され、立身出世の願いが込められています。軒丸瓦には、「忠」の文字が刻まれ、これは施主の御堂忠治を意味すると思われます。

 忠治は大正4~5年に宮窪村役場の収入役を務めたこともある地元の名望家で、その子・政逸は昭和19~21年に村長を務めています(『宮窪町誌』)。同家は、この家が建つ忠治の代に最も繁栄したと思われ、若宮神社や海南寺の寄付石の金額からもそのことがうかがえます。当時の生業は、農業を中心とする地主だったと思われます。

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母屋の屋根瓦

※調査不十分につき、新たに竣工年代等分かりましたら、その都度、加筆訂正を行いたいと思います。ご了承のほど、どうかよろしくお願い申し上げます。

広報担当 大成
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