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能島城跡の発掘調査現地説明会に参加して(1/23)

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 能島城跡は、能島海賊衆の主要な拠点の一つであった海城で、国の指定史跡となっています。近年の考古学調査の成果もありまして、その海賊衆の実像が浮かびつつあります。
 平成19年度の調査では、南部平坦地が、海賊時代(16世紀前半頃)の埋立地であることが判明。さらに、島頂上部の本丸跡からは、多数の柱穴跡が見つかり、海賊時代に掘立柱建物が建っていた可能性が高まりました。中には、船折瀬戸を望むような配列の遺構(いこう)もあって、その後の調査に期待がふくらんだしだいです(平成19年12月9日/現地説明会開催)

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 【成果その1】
 今年度の調査で得られた成果は、大きく3つあると思います。1つは、本丸跡の柱穴の配列を吟味したところ、航路である船折瀬戸に向かって、2間×2間(1間は、約1.8m)の掘立柱建物が建っていたことが判明。さらに、柵の可能性をうかがわせる、柱穴列付近の小さな穴の中で、土師器(はじき)皿1枚と、その上に置かれた銭貨(5点以上)を発見。これは、建物を建てる際などに行う儀礼の痕跡“地鎮(じしず)め遺構”と考えられるようです。

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 【成果その2】
 2つめは、矢櫃(やびつ)と呼ばれる郭(くるわ)で発掘調査を行ったこと。郭とは、城郭の機能を考える際、人工的な造成作業でつくりだした平坦地をいいます。矢櫃は、鵜島に向かって突き出た郭で、出丸の機能が考えられます。伝承では、そこは水軍武者が弓矢の練習を行った場所とされ、武器庫のような施設遺構が連想されるも、そういった遺構・遺物の発見はありませんでした。他の郭(本丸・二の丸・三の丸・東南出丸)と比べても、遺物の出土量が最も少ないことが分かりました。伝承を、鵜のみにしてはいけないということですね。

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 【成果その3】
 3つめは、鯛崎島に向かって突き出た郭の東南出丸で、本丸同様の“地鎮め遺構”見つかったこと。こちらは、銭貨の出土量が本丸をはるかにしのぎ、少なくとも約40点の中国銭(永楽通宝)があることが判明。こうした“銭貨をともなう地鎮め遺構”は、愛媛県内の中世城郭では、初めての出土例とのことです。ただ、海賊衆の特性には、海上交易にたずさわる商人や海上交通の管制者としての側面もあるため、陸の城と同様の機能を重ね合わせるのは“注意”が必要です。果たして、東南出丸には、本丸跡よりも重要な建物があったのでしょうか。

 【成果その他】
 その他、気になる点と致しましては、東南出丸の“地鎮め遺構”の写真を見て頂いたらお分かりの通り、土師器皿が割れています。これは調査員の作業ミスではなく、桜の根の伸長が影響しているということです。近年、遺跡保存を考える際、植生の与える影響がよく指摘されますが、まさに後世に観賞用で植えた樹木によって、希少価値の高い史跡が破壊を受けるというのは、何とも皮肉なことです。今回発掘したことで、その課題が浮き彫りとなりました。
 来年度は、鯛崎島の発掘調査が予定されています。今後の調査成果にも、期待したいと思います。     

広報担当 大成
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