top of page
title_top.gif

難波橋のライオン像も大島石?

p001.jpg
ライオン像①
p002.jpg
ライオン像②
p003.jpg
ライオン像②
p004.jpg
ライオン像②

  一昨年~昨年にかけて、大島石にこだわった記事を多く手がけましたが、久しぶりに〝こんなところに大島が!?〟シリーズの復活です。といいますのも、また新たな資料を見つけ、大島石を石材とする歴史的建造物にたどり着いたのです。
  明治~昭和初期においては、大島石の採石場は宮窪村と大山村の行政区に分かれ、現在の大字宮窪は宮窪村で、大字余所国(よそくに)・早川などは大山村に属しました。大島石材業の近代化に大きく貢献した長井兼太郎については、宮窪村の住人となります。そのため、長井家の資料を中心に大島石を語ろうとすると、これとライバル関係にあった余所国側の歴史がおろそかになります。かつては、余所国で採石された花崗岩は〝余所国石〟と称されたりもしました。
 余所国側では、清酒「笹の井」の醸造元でも知られた村上酒造場の村上幸造が、採石業の中心人物の一人であることは、これまでの調査で浮かびあがっていました。今回は、もう一人のキーパーソン・木本八千馬(きもとやちま)の存在が新たに分かりました。今治市名誉市民の木本達郎はその子孫であり、さらにその子孫は現在採石業を営んでいませんが、丁場の土地所有者ではあるようです。木本家住宅は、余所国の大島石協同組合事務所に隣接しています。
 大正12(1923)年1月に発行された『海南之新人物』(大東通信社)によると、当時、八千馬は今治地方において石材業を代表する唯一の企業家として掲載されています。その事績を要約すると、「木本八千馬君は越智郡大井村(現、今治市大西町)の出身で、余所国に来てからすでに20年がたとうとしている。以前は北海道で酒造業や農産物の取り扱いをし、特に農産物では明治33(1900)年の北清事変(義和団事件)で多額の利益をあげたが、健康を害して帰国することになった。その後は大阪で遊んでいたが、住友の勧めで大島へ移り住み、石材採掘を始めて現在にいたっている。中之島公園(大阪市)の石材から、有名な浪速橋(難波橋)のライオンの石材は君の供給によるものである。また、広島第一軍の日清役記念碑、東宮御所の石材、道後温泉の石材なども君の調達したものである。趣味は骨董と書画。」と。
 ここで筆者が注目したいのは、大正4(1915)年に架設された大阪市の難波橋で、その4か所の親柱上に座るのがライオンをかたどった石像です。

ネットで検索をすると、このライオン像は架橋と同時に設置され、兵庫県三田市出身の彫刻家・天岡均一(あまおかきんいち)が原型をつくり、石材建築の権威だった石工の熊取谷力松(くまとりだにりきまつ)が彫ったようです(日本経済新聞記事「難波橋と和歌山 うり二つのライオン像」など参照)。この像は、当時としては珍しかった天王寺動物園のライオンがモデルともいわれています。
 ただ、石材については、ウィキぺディアで〝最上級の黒雲母花崗岩を素材としている〟との記述が見られますが、産地までは明らかにしていません。これが前述の『海南之新人物』によって、八千馬が供給した大島石の可能性が高まりました。八千馬が、過去に大阪で遊んだ際の人脈で、商談を成立させたのでしょうか。高品質の花崗岩は、名工でないと巧く加工ができませんから、力松のような人物に仕事が依頼されたのでしょう。また、大阪という土地柄は、すでに心斎橋が大島石を石材として明治42(1909)年に架設されたという実績があり(石材供給人/宮窪村石材販売部)、ライオン像が大島石という可能性は大いに高まります。一方、『宮窪町誌』に掲載の長井家納入記録にも、「大正5年/大阪新浪波橋改築」とありますが、当時の難波橋の構造は鋼製(S造)のようなので、大島石が用いられたのは装飾の石造箇所ということになります。明治40年代に、宮窪と余所国の石材関係者が販売協定を結んでいることから、長井兼太郎と木本八千馬の両者が協力して、大島石を難波橋へ供給したと理解するのが自然な見方かも知れません。
 さて、掲載画像の4体のライオン像は、大阪在住の久留島通則氏(来島海賊頭領子孫)に撮影を依頼しましたが、筆者自身も近い将来、現地を訪ねて石材の確認を自らの目で行いたいと思います。

広報担当 大成
bottom of page